1月4日の記事

2016年01月04日

加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』岩波新書(2015年12月18日第1刷)
今、暇を見つけて村上春樹を読んでいるので、すぐ飛びついた新書である。村上春樹が小説を通じて何を伝えたいのか、日本の文壇の中での位置づけなどについて著者の考え方が書いてあった。
村上が世の中に知られるようになったのは、1979~1980年。この時の文壇の評価が書いてあり、非常に面白い。村上春樹の作品は村上龍の衝撃的な作品『限りなく透明に近いブルー』の陰に隠れてしまった「より小ぶりの台風」だったと書いてある。ただ最初の作品『風の歌を聴け』は79年度の群像新人文学賞を受賞しており、この才能を見つけたのは誰だったか気になっていた。この本では丸谷才一と吉行淳之介が強く推したという。この作品の芥川賞の選評では大江健三郎や遠藤周作などから、「アメリカ小説をたくみに模倣した小説」「ところどころ薄くて」「反小説の小説」、小説から「すべての意味を取り去る現在流行の手法」「本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか」などと批評されている。根深い批判者の急先鋒が大江健三郎、柄谷行人、蓮実重彦など反文壇的な戦後文学者やポストモダン期の批評家たちだったとされている。しかし、村上が世界有数の人気小説家になると、国内での否定論はなりを潜めてしまったと書いてあるところも記憶に残るところである。
この本ではなぜ小ぶりの台風に価値があったかについて分析してある。村上春樹の作品は「肯定的なことを肯定する」内容という。つまり、これまで近代的な理想を旨とする現実への否定の力が後発の近代国家の創世記以降の文学を動かしてきたが、村上春樹はこのような方法を否定する小説を書いている。時代も70年代の終わりのころは、無自覚に否定を否定する、単に肯定的な気分が社会的に支配的になっており、純文学の世界は一般社会から徐々に「古めかしい」もの、「暗いもの」として忌避されるようになっていた。社会がゆたかになると「うまい!」「やりたい!」「うれしい!」という新しい欲望の肯定が、従前の音楽、文学を打ち倒し、勝利し、人々を魅了するようになるとも書いてあった。
最初の『風の歌を聴け』の英訳の原タイトルは、“What’s So Bad About Feeling Good?”、「気分が良くて何が悪い」と表現されている。「気分が良いことを否定しない」でどんな純文学的な小説が書かれうるか?「欲望」を否定することなく、どのように新しい―またそういいたければ真摯な―文学を作り上げるかが問題となってきつつある中で村上春樹が登場してきたことになる。
『風の歌を聴け』から5年後、84年に村上龍は一点、こう書く。サザンオールスターズの桑田佳祐が証明したのは簡単にいえば「否定性」などなくてもよい音楽を作れるということだ。・・・サザンが「日本で初めて現れたポップバンド」であることの意味だ。「ポップスはずっと日本に存在しなかった」。なぜか。日本がこれまでずうっと「貧乏だったからだ」。
「喉が乾いた、ビールを飲む、うまい!」
「横に女がいる、きれいだ、やりたい!」
「すてきなワンピース、買った、うれしい!」
それらのシンプルなことがポップスの本質である。そしてポップスは、人間の苦悩とか思想よりも、つまり「生きる目的は?」とか「私は誰?ここはどこ?」よりも、大切な感覚について表現されるものだ。
 だから、ポップスは強い。ポップスは売れる。すべての表現はポップスとなっていくだろう。

社会の主流はあの村上龍の「うまい!」「やりたい!」「うれしい!」の欲望の全行程に行く。しかしそのうちの少数派は違う道、それへの抵抗の道を辿る。70年代初頭の若者の反乱の時期の終熄をへて、以後世の中がいわば近代型の正義、反逆、モラルへの失効と空転ぶりに「しらけ」、拡散し、やがて「ポップの勝利」へと収斂していくなかで、いわば少数の悲哀派はもう信奉し依拠する原理がないままに、それでもとにかく世間への同調を拒み、その一点に踏みとどまることで、独自の道を進むのである。
 それが、村上に初期をすぎて「デタッチメント」という態度が摑まれるようになる経緯でもある。

村上はひとまず、社会と戦う後退戦のなかで、世間に同調することを拒み、社会とのあいだに距離を置くこと(デタッチメント)に、自分の足場を見出す。

しかし、この消極的な姿勢は、いまや否定性の「塩」のきかないポストモダンの時代における彼の精いっぱいの抵抗の姿でもある。

 つまり村上春樹は近代の終り、ポストモダンの時代の到来を生きた、最初のアジアの小説家の一人なのである。

父は亡くなり、その記憶も―それがどんな記憶であったのか私にはわからないままに―消えてしまいました。しかしそこにあった死の気配は、まだ私の記憶の中に残っています。それは私が父から引き継いだ数少ない、しかし大事なものごとのひとつです。

『ねじまき鳥クロニクル』が描くモンゴルの殺戮の場面、中国心境の「動物園襲撃」は、いまや絵空事であることによって、逆に新しい現在の「記憶」された歴史の「生々しい」現実性に迫っている。そう見るほうが、正しいのではないか。現実のもつ現実性が時の経過のなかでリアルな意味をすり減らしてしまう。そういうばあい、その現実性は、いまやフィクションを通じてしか、リアルな意味を回復できないのである。

ひたすら訊く、そして記録する。冗長、反復は、聞き手の都合から生じることで、話す人にとってははじめてだということを肝に銘じ、一心に謙虚に耳を傾ける。



Posted by 圭一 at 18:18│Comments(0)
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